「君がいないと困る」と伝えてくる人達へ向けて
「有給休暇が休める雰囲気じゃないので使えない」なんて話を小耳に挟んで、なんか自分と重なるところが若干あるのかなぁなんて思って書きました。自分はしばしば「誰かの大切になりたくない」という考えのもと、信頼されすぎないように立ち回ったりします。仕事なんかに限った話じゃなく、必要以上の役割を負いたくないからです。その辺について語ってます。以下、本文。
替えが利かない状況がある。
人が足りないから回らない職場。それは得てして「人」を必要としているだけであって、個人を必要としていない。それは尊重されていると言えるのか。「有給を使って休むなんてアイツは裏切り者だ」なんて風潮がある。確かに「自分は働いているのに、アイツは今頃家で寝てるか遊んでる。それで発生する給料が同じだなんてやってられるか」という心理も一理ある。でもそれって、信頼関係と呼べるのか?「たまにはゆっくり休みなよ。君1人の空きくらいなんとか埋めるさ」これがあるべき信頼関係じゃないのか。
こんな薄っぺらい信頼関係が当たり前にはびこってる。「信頼」という言葉の根底に自分自身しかいないのだ。「彼は僕にたまには休めと言ってくれた。僕の仕事は肩代わりしておくと言ってくれた。彼は良いやつだ。」そんなの誰から見ても良いやつだ。自分の仕事を肩代わりしてくれるから親友なのか、そうじゃなければ「ふざけるなよ」なのか。
「信頼」という人間関係に自分への利益を前提条件に勘定してる人間がいささか多過ぎやしないか。本来それは逆であるはずだ。いろんな経緯があって相手を好いている。だからこれくらいしてあげてもいい。「無条件」なんて言葉を使ってしまうと少しややこしいけれど、ただ単純に相手への好意が最初にあって、そこから互恵関係に発展するのが「信頼」ってやつじゃないのか。
そんなのの区別も付かずに仲良くしてくる人間なんて、願い下げだ。
僕は、そんな自分の好意に値段を付けて売り飛ばすようなマネをしたくない。
僕の身体は1つしかない。どうしようもなく用事が重なってしまった時、やむなく「優先順位」をつけなければならない時はどうしてもある。場合によっては謝っても謝りきれるものじゃない。それがお金に替えられない信頼関係なら尚更だ。
だから、というわけではないけれど、僕はなるべくその人に信頼されたくない。応えきれない想いは、闇雲に受け入れるものじゃない。その重さに自分が押しつぶされることになる。自分が請け負った想いに100%応える為に、応えられるだけの想いを応えたいぶんだけしか受け入れたくないのだ。
故に、僕は代替可能でいたい。僕が応えたい人に応えられるように。