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やぎ座のヒトリゴト

僕の思ったことを書いていきます。雑記ブログです。

あったかもしれない「今」が愛おしい

たられば、もしも。あの時こうしていたならば。

考えたって仕方が無くても想いを馳せてしまうことが増えたような気がします。可能性という意味じゃいつまで経っても無限大ではあるのですが、こうやって選択を繰り返してきて、今になって自分が通ってきた岐路を振り返ると、僕が立っている今にもきっといろんな形があったのだろうなと思います。何も、今この瞬間を悔いているとかそういうわけではなくって。単純に今ここにいる僕が今とは違った時間を生きていたかもしれないと思うとそこに夢を感じるんですよね。

そうは言っても、現実っていうのは夢の無い世界なので、大小違いはあれど結局そこまで大差の無い日々なのかなとは思うのですが、それでも、何か別の趣味を持っていたとしたら?違う人たちと仲良くなっていたら?起こりうるちょっとした違いから僕の日々はきっと違う彩りを見せたはずで、それが良いとか悪いとかじゃなく、単純に惹かれたりするんですよね。「隣の芝は青い」と、つまりはそういうことなのだろうなと思います。ないものねだり。やっぱり考えたって仕方が無いんですけどね。

何でしょうね、別に大人になりたくないとか、そんなことをのたまうつもりはないのですが、それでもこうやって選択していくことによって、ひとつひとつありえたかもしれない「今」がついえてしまうのは寂しいなと感じます。選ばなければ、その可能性に夢を見ることができるのに。とか、やっぱり子どもっぽいですね。「何かを選ぶ」ということは同時に「他の何かを選ばない」ことなんだなと今更感じます。僕にはそれがなんだかとても勿体無いような気がしてしまって。どれもあまりに魅力的だからどれか1つなんて選べないよって思ってしまうんです。欲張りというか、なんというか。結局どれかは選ばなきゃいけないんですけどね。あれもこれもとは、やっぱりいかないですよ。全知全能でもないですし。時間だって、有限です。

こうしてあれやこれや考えたって、結局今日やることも変わりません。選んだ今を、全うするだけです。せっかく掴んだ今なのだから、精一杯味わわなきゃそれこそ勿体無いです。だから後ろ髪引かれず前へ進んでいくのが良いとは思うのですけどね。僕はやっぱり失われた「今」を惜しみたいようです。全部全部、大切な「今」だから。