身の回りのモノを処分している
世に言う「断捨離」というやつです。
元を辿れば、昨年の夏に読まない本を売った頃から始まっていたのかもしれませんね。手元にあっても使わないものは手放してしまう。そうしてモノを減らすことで、見も心も身軽になっていく。整頓された部屋はやはり心地が良いですし、持つモノが少ない生活は自分の何かを軽くしてくれるような気がします。
年末年始に実家に帰った際に、僕の部屋に残っていたモノも少し処分してきました。幼い頃の思い出の品だったり、いつどこで手に入れたのかもわからないものだったり。今はもう、使われなくなったモノ達です。売ってしまいました。お金にして3000円とちょっと。以前のように「こんな安いもんじゃない」と憤ったりするようなことはありません。「死んでしまえば、遺品として処分されてしまう。一緒にあの世には持っていけない」しばらく前に亡くなった祖父の遺品整理に立ち会った母とそんな話をしました。残しておいても、結局は処分されるのだと。
一方で、「欲しくなったらまた買えばいいというけれど、そう思った時にはもう手に入らない」と父は言います。だから、とっておくのだと。そんな父の持ち物は一見するとよくわからないものも多いです。きっと彼にはちゃんと意味のあるモノ達なのでしょう。
持ち物とは、そういうものなのかなと思います。
どこまでも主観的で、自身が見出すからそこに意味が生まれ、だから他者からすればそれは一般的な価値しかありません。手放したくないのはそれによって呼び起こされる思い出とか感覚であって、「持ち物を処分する」という行為はそれらを「もう振り返らない」と一旦断ち切る行いなんですよね。
僕ら人間には覚えておけることに限りがあります。脳の容量に限りがあるからです。脳の容量に限りがあるように、部屋の広さにも限りがあって、だから僕ら人間には思い出せることにも限りがあるのだなと感じました。処分をすればするほどに、僕らの心は軽くなっていくのでしょう。それはおそらく引きずる過去が減っていくからなのだと思います。