やぎ座のヒトリゴト

僕の思ったことを書いていきます。雑記ブログです。

寝込んでいる間に2月が終わってしまう

どうも、3日か4日ぶりです。

そんなに時間が経っていたわけでもないのですが、ここのところハイペースな更新が続いていたのでけっこう空いた気がしますね。この4日間何をしていたのかというと、熱を出して寝込んでいました。風邪ですね(--;) 毎年1年に一度、どっかしらで身体を壊す僕で今年の冬はここまで特に体調も崩すことも無く、元気にやってきていたのでそろそろ怪しいなと思った矢先でした。嫌な予感って当たるもんですね、ホント。

 

とはいえ、不幸中の幸いといいますか、病院に行ってもインフルエンザは陰性でしたし、熱も38度を数回上回ったくらい、症状も頭がぼぉっとする程度とだいぶ軽いものでした。一昨日の夜に熱が出てるとわかった時には「ついにインフル来たか!」とポカリスエットと食糧を買い込み万端の準備で臨んだのですが、意外と拍子抜けな感じで終わりそうです。・・・・この油断が怖いんですけどね(--;)

 

寝込んでいる間に2月は下旬になり、下旬になったということはもう3月がすぐそこに迫っているということになります。早かったですね。既に近所の道端には小さな花が咲こうとしています。気付けば日も伸びました。・・・・今月何もできなかった気がする(--;)

沢山記事の更新はしましたけど・・・・他に何かやりましたっけ?って感じですね。ヤバイですね。まだ残っている数日間、なるべく有意義に過ごしたいと思います。とりあえずは、こないだ買った本でも読もうかな。

外国語を学びたいとぼんやり思う

英語とは言わないですけど、外国語を扱えるようになりたいなと思います。

急に意識高いような記事になりますが、そう思うのです。遡れば電脳系の記事でvisual studio が上手くインストールできなかった話が出てくるのですが、解決策を探していた時に英語のページがいくつかヒットしていたんですよね。何となく読めないこともないんですけど、イマイチ容量がえられないんです。「言葉を知らないと可能性が狭まる」みたいな話は理屈としては知っていたのですが、こういうことかと実感したんですよね。読めたところで問題が解決したかはさておき、間違いなく取れる手段は増えたはずなんですよね。

 

こんな風に、言葉を知っているだけで広がる可能性とか世界ってきっともっと沢山あるんだろうなって思います。言葉を知っていたならば、出会えたかもしれない人とか、得られたかもしれない機会とか、見つけられたかもしれない場所とか、そういうモノが沢山あったと思うとなんだかもったいないと考えるようになったんですよね。

日本という国では、英語の勉強が必須とはいえ、英語を習得せずとも大学までの教育課程を修得できます。僕らからすれば当たり前なのですが、世界的に見ればこれは珍しいことなんだそうです。母国語に翻訳されている教科書が少ないので専門的な知識を得ようとした時に英語の習得が不可欠なんですね。世界における日本の翻訳書の多さは異常なのだそうです。ゆえに、日本語だけで不自由なく暮らせてしまいます。だから、取りこぼしている可能性の存在に気付きずらいんですよね。

言語を学ぶことで、今の自分には見えない世界が見えてくるというは、何だか夢のある話だなと思います。

サボテンの経過報告2

ここのところめっきり更新が無かったので、久々にサボテンの記事を書こうと思います。

と言っても、今は冬場。変化も少ないような時期なので、正直あんまり書くようなこともないのですが、まあ、ぽつぽつと、近況報告も兼ねてやっていこうと思います。「一応、続いてますよ」って生存報告にもなりますしね(--;)

最近のサボテン

以前の植え替えをしたばかりの頃は、謎の愛着を持ってベタベタと愛でたりもしていましたが、最近はというとそんなことも無く、程よい距離感を持って接しているかなと思います。この時期の水やりは月に1回くらいでいいそうなので、基本的には窓辺に置いておくだけ。たまに思い出した頃に眺めるような関係性です。

以前の更新で調べていたトゲの先が茶色くなる現象はいつの間にか解消していました。やはりベタベタ触ったのがいけなかったんでしょうかね(--;)

 

低温期とは

「低温期」というワードが気になったので少し調べてみました。サボテンは12月から2月にかけて「低温期」という時期に入るそうで、主な生長期である春や秋とも、生長が止まる時期である3月や11月とも、また違うようです。

「止まるより先に何かあるのだろうか」と思って調べてみると、どうやらこの低温期、「休眠期」とも言うそうで、極端に生長が遅くなる時期を指して使う言葉のようです。「生長が止まる」と言っても、ピッタリ停止しているわけではないようですね。ある程度植物として営みが落ち着くのが3月、11月でそこからさらに穏やかになる時期といった感じでしょうか。なので最低限の水やりが必要だったわけですね。

 

まとめ(のようなもの)

そんな感じで、相変わらず窓辺に佇んでいるサボテンでした。

変化というほどのものでもないかもしれませんが、前より根元がグラつかなくなったような気がします。根が張ってきたのでしょうか?それとなんだかちょっと大きくなったような?時期的に見ればけしてそんなはずは無いのですが、窓辺とはいえ暖房をつけた部屋の中ですからね。多少は生長しているということなのでしょうか?

 

f:id:sinajirou:20190215162606j:image 

※今回は、主にこの辺から勉強させてもらいました。

初心者卒業!多肉植物の冬越しに自信が持てる育て方 | ひとはなノート

サボテンの「休眠」について、ご意見願います。 - 以下、私が思う事です。●... - Yahoo!知恵袋

偽物でも、存在することに意味が宿ると思っていた

ずいぶん変わったよなと思います。

具体的にいつとくらべてという話になると難しいのですが、ここ数年間、変化の多い日々を過ごしてきました。新しい場所に来て、新しい人に出会って、新しいことを始めて、いろんなモノが始まって、いろんなことがあって、だからいろんな影響を受けていました。

確かなモノを求めていました。変わらないモノを、自分の中に不変な部分を持っていたかった。ブレてしまうことは裏切りになるから、自分という人間を定義してそこに確信を抱いていたかったです。

 

変わっていってしまうことが、嫌でした。今あるモノや日常が形を変えて、失われてしまうことが悲しかったです。なるべく記憶に焼き付けていようと思いました。できる限り、今あるモノを味わい尽くそうとしました。だから、どこまでも客観的でいたくて僕はいつも傍観者でした。今思えば、そんな毎日の中でも僕は少しずつ変わり続けていたようです。

前より少しだけ歳を重ねました。変わらないような景色でも視点が変わることで見え方も変わってきます。それによって浮かぶ感想に変化が現れ、だんだんと僕の思考自体にも変化が及んでいきます。その過程でいろんなことがありました。僕は、意外と染まりやすいようですね。

 

最終的には変化を望んでいました。「紛い物でもいいから」とあんなに切望した不変も、今は脱却する対象に成り下がってしまいました。思考自体はずいぶん健全になりました。更正したと言って良さそうです。偽物を偽物だとして、それを正そうとすることは真っ当なことなんだと思います。一方で、正しさだけでは救えないモノに手を伸ばして、偽物だったとしても、矛盾を成立させる可能性に縋った僕もきっと間違っていなかったんだと思います。救われない僕も、大切な僕でした。

次へ進んでいく僕はきっと今まで以上に変わっていくのだと思います。今後、それまでの僕からはどんどん遠ざかっていく。いつか、この日の僕を懐かしく振り返る日が来るのでしょう。その時まで、さようなら。

ブログのランキングサイトに登録しました

ということで、事務連絡的な内容になりますね。

このたび当サイトはにほんブログ村に登録することにしました。

これも「今更何を」と言われてもいいような案件ですね(--;) にほんブログ村はブログのランキングサイトになります。ここに登録して、ランキング上位を目指すことで、このブログにも新しいアクセスルートを作ろうという企みですね。

ブログ全盛時代だった2000年代と比べればずいぶん落ち着きましたが、未だにブログ界隈では大きな影響力があるそうです。僕はといえば、このはてなでブログを始めてからずっとはてなの民で同じドメインの中をウヨウヨ彷徨っていたのですが、外を見渡せば大きなブログサイトはゴマンとありますからね。これを機にもっと沢山のブログに触れていきたいなと思います。

楽器の錬度はDTMソフトにも共通するらしい

「楽曲製作にも錬度というか、上達具合があるんだな」という当たり前のことを体感したこの頃です。

ここのところ、パソコンの勉強をやり直す流れでいつからか途切れていたDTMの方もまた触り始めているのですが、何というかやっぱり上手くいかない。別に長々やってきたわけでもないし、やってない間に抜け落ちているモノも少なからずあるんでしょうけど、まあ思い通りにならないものですね。

 

不思議なモノで何となく頭に浮かんでいたアイデアでもいざ音符に起こして作ってみると、全然面白みの無いものだったりするんです。何かの小説で「アイデアは頭の中にある頃が1番愛着が持てる」みたいなセリフがあったような気がしますが、本当にそんな感じです。実体を持って、外の空気に触れた途端に陳腐なモノに成り下がってしまうような。

同じ楽器でも誰が弾くのかによって全く違った表情を見せるように、楽曲製作でも、どれだけそれに触れてきたかが、音楽に反映されてくるのだろうなぁと思います。パソコンという媒体でそういった経験をするのは不思議な感じがしますね。とにかく毎日触って基礎練習やってたギター始めたての頃の感覚を思い出そうと思います。

「絶好のタイミング」という幻影

いつからか、なのはわからないです。

「万全の状態で臨める時の方が少ないよな」と思うようになりました。

それは体調であったり、資金源であったり、準備段階であったり、具体的に何とは言いずらいですけど、何かをやろうと思った時にちょうどそのためにやってきたかのような「絶好のタイミング」なんてのは中々無いんですよね。どころか、なんでもない「タイミング」でさえ都合よく訪れてくれないなと思います。いつ、どういう時に「ここだ」となったところで、きっと何かしらが足りていない。というか、足りないものを挙げていけばそもそもキリがない。

「タイミング」なんてモノはきっと存在してなくて、ふと目の前に転がってきたそれを「きっかけ」として捉える自分自身がいただけなんだと思います。タイミングは自分で作るモノ、状況は開拓していくモノ。そういうことなのだろうなぁと思います。

今日も目の前の作業が手につかないです。まあ、コーヒーでもどうぞ。