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やぎ座のヒトリゴト

僕の思ったことを書いていきます。雑記ブログです。

考えることを減らしていきたいと思う

余計なことに頭を使いたくないなぁなんて思います。

何も考えないでただ漠然と過ごしていくような毎日はさすがにお断りですが、考えることがありすぎる毎日というのもいかがなものかと感じます。人間の頭ってCPUみたいにできてないんですよね。クアッドコアで並列処理とかできないのです。2つや3つまでならまだしも、4つや5つのことまで同時並行で進めていくにはさすがに抱えきれないよなぁなんて思います。

でも昨今はIT全盛期の情報社会。選択肢も可能性も溢れ返っています。この現状は昔から見れば何かを諦めることが少なくなったずいぶんと幸福な世の中なのですが、その反面、数多ある要素の判定が基本的に全て僕らの頭脳に委ねられるという、選考過多な世の中でもあります。できることが増えたがゆえに、そのために考えなきゃいけないことも増えてしまったんですね。でも、僕らの頭脳は一度に考えられることに限りがあります。この頃の僕はどうやらオーバーフローを起こしてしまっているようです。

溢れ返った情報の波。莫大な選択肢をどうやって削っていくかが、これからの日々を健やかに過ごしていく鍵になるのかなと思います。人の頭は多くのことは考えられない。数ある選択肢の中から最上の1つを探していては、とても時間が足りません。だから、探す母体数を削いでいく。自分が探す範囲に大雑把にあたりをつけて、他の情報を選択肢から外す。そうやって必要の無いことに頭を使って余計な負荷を負わないようにしていけたら、目の前のことにもちゃんと向き合えるようになっていくのかなと。人間、生きていくのに本当に必要なモノって、きっとそんなに多くないはずだ。

なんて、そんなことを思いました。

公約を達成していくことが難しい

「これをやる」と言ったことをキチンとやっていく人はスゴイなぁと思います。

公約を達成しない政治家とか、そういう話じゃないですけどやると決めたことをキッチリこなしていくことって結構大変なんですよね。子ども頃は純粋な心で「どうしてお父さんはよく約束を破るんだろう?」なんて考えていましたが、大人になったらいつのまにかそうなってる自分がいて。「今週はこれとこれとあれをやろう」なんて手帳に書き込むのですが、終わってみたらto do リストには未達成のタスクばっかり。あれ、今週何してたんだっけ?なんて首を傾げたり。

自分がそんなに真っ当な人間じゃないことはわかっているし、そもそも人間がそんな立派な生き物でもないんだよなぁーとか考えると、こういうことは別に不自然でも何でもないのかもしれないです。それでも言動の不一致は信頼を下げるし、何より自分自身に嘘をついた気がしてしまって悲しい気分になります。こないだ時間が守れないという内容の記事も書きましたが、そういう部分ですよね。人との約束、自分との約束。何気ないことでも守れるようになりたいです。

やっぱり僕は抱え込み過ぎなんでしょうね。

「金持ち父さん貧乏父さん」を読んだ感想

鉄は熱いうちに打て。ということで、読書記事です。

こういう自己啓発系の本自体も読むのは久々なのですが、久々に良い本に出合えました。読み出してその勢いのまま1冊読みきってしまったなんてことはかなり久々です。早速紹介していきましょう。

「改定版 金持ち父さん貧乏父さん」

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概要

著者:ロバート・キヨサキ 訳:白根美保子 発行:2013年11月10日

わざわざ紹介するまでもなく有名な本ですかね。2000年に出版されてから世界各国でベストセラーになりした。日本も例外ではなく、「人生で1度は読んでおくべき本10選!」みたいなブログ記事にも必ずといって良いほど並びます。僕もそういう記事か何かでこの本を知ったはずなのですが、どこで知ったか忘れてしまいました。

この本は筆者の人生に大きな影響を与えた2人の父の話と筆者自身の人生経験を元に、金持ちと貧乏の間に潜む秘密を説いていく内容になっています。「どうしたら金持ちになれるのか」「なぜ貧乏なままなのか」その疑問を解き明かすとともに、金持ちと貧乏のお金の使い方の違い、お金について学ぶことの大切さを気付かせてくれます。

感想

こうやって記事にするにあたってネットでこの本についてザックリ検索をかけてみたんですけど、この本を利用した情報商材の被害かなんかの記事がめちゃめちゃヒットしました。あと内容を要約した記事もだいぶ多い。いろんな意味で反響の大きい本のようです。他の記事で紹介されている場合でも、一緒に紹介される本に比べてこの本が書かれたのはかなり最近です。「流行」とか「歴史の浅さ」という意味でも喰いつきやすさがあるのかなと思いました。

書いてある内容はというと、当たり前のことが多かった印象です。「自分が稼いでる額以上のお金は使わない」とか「稼いだお金をただ貯金するのではなく資産にするべき」とか。誰も知らないようなぶっ飛んだ発想が書かれているわけじゃありません。それでも言われてみればハッとしたり「なるほど!」と思わされるのは、僕のお金に関する知識の少なさがそうさせるんでしょう。本の中でもたびたび「会計力・・・ファイナンシャル・リテラシー(お金に関する読み書き能力)を身に付けろ」と言われてましたが、本当にそうだと思いました。僕らは「お金が欲しい」と言うわりにはお金について知らなさ過ぎる。これじゃ親に向かってお菓子が欲しいと駄々をこねる子どもと同じです。

ネットには、この本や作者を発端としたいろんな話が賛否両論渦巻いてますが、少なくとも僕は良書だとも面白い本だとも思ったし、心底「お金についてもっと学ばなければ」と感じました。興味のある人は手に取って、自分の目で確かめてみてはどうでしょう?

 

 (最終更新:2018/08/20)

時間にルーズな僕は本当にキチンとしたいのか

何だってこう何かと時間にルーズなんですかね、僕は。

どうにかしたいとは思っていても、ついつい間に合わなくなってしまう。それが自分の怠慢に寄るところならまだ自業自得と納得できますけど、自分の意図しないことに起因する場合は散々な気分になりますよね。「何俺、なんか悪いことした?」って。おそらくは普段から適当でいるバチが当たってるんだと思うんですけどね(--;)

「時間はしっかり守れるようになろう」「約束はちゃんと果たせるようになろう」そう常々思ってはいるのですが、この想い届かず、間に合わない時というのはどうしてもありますよね。この頃なんかはもう「そういう風の吹き回しだったんだ」とかなんとか運命論じみたことを嘯いて、過去に流してしまうことも増えました。その方が気が楽ですからね。でも一方で、いつまでもルーズでいて良いものかと思う自分もちゃんといるわけで、どうにかして自分を真っ当に管理しきろうと策を巡らせたりもします。「もう少しトラブルを見越して行動できないのか」とかいつもあれこれ考えるのですが、やっぱり根本的な解決には至らないわけで。

そんな時に思うのですが、時間にルーズな人とそうでない人とではモノの考え方から違うんじゃなかろうかと、僕はそう思うのです。思い切った言い方をしてしまえば、思考回路が違う。時間の使い方から生活リズムまで、同じようでいてその実確実に違いがあるのだろうな、なんて考えが頭をよぎります。

多分、もっと根本的なところから変えていかなきゃいけない。でも僕自身は果たしてそれを本当に望むのでしょうか?

背伸びして買った革財布がだんだん古びてきた

当時の僕にとって財布に1万円なんて金額を払うのはずいぶんな気がしました。

身の丈に合わない。そんなことを思いながらも「革の色が変わる頃にはこの財布が似合っている自分になろう」と今の財布を手にとりました。あれから4年くらい経ったんでしょうか。買ったばっかりのランドセルのようにピカピカだった僕の革財布はずいぶんと古びた風合いになっています。中のヌメ革がすっかり変色して、古めかしさに拍車をかけます。最初はきつ過ぎてなかなかカードが入らなかったポケットも、伸びきって楽に出し入れできるようになりました。本当、すっかり馴染んじゃって。

あの時は「5年くらいは使ってやろう」と意気込んでましたが、4年でも結構くたびれちゃうものなんですね。その辺は革製品といっても1万円クオリティなんでしょうか?それとも僕の手入れがなってなかったのか。傷が増えた財布の外側を見ながら「そろそろ買い替え時かも」なんて考えます。僕はこの財布が似合うような人間になったんでしょうか?歳は重ねましたがその辺はまだまだ自信が湧きませんね。あの頃と状況はもちろん中身もずいぶん変わりましたけど、相変わらずみっともなく這いつくばってる感じだし。それでも進んできた道を振り返りながら「良い色になったよな」って思います。わかりやすく何かを成し遂げられたわけでもないんだけど、革財布の色がこんなに変わるくらいにはいろいろやってきたんだな、なんて。長く使っていけるものはこういう時に良いですよね。時間の経過をわかりやすく、良い形で感じることができる。

次に持つ財布はどんな財布なんでしょうか。それを買い替える頃には僕はどんな大人になってるんでしょうか?

初めての人にドリップコーヒーの魅力を伝えてみる

関東じゃ梅雨が明けたと思ったら、とんでもない量の雨が降ってますね。

今回は雨の日に飲みたい(?)コーヒーの紹介記事。以前チラっと話していたような気がします。僕はコーヒーを豆からドリッパーで淹れる人なのですが、手間のかかるこの飲み方の魅力を紹介したいと思います。さて、とりあえず一杯淹れてきますね。

ドリッパーで淹れる良さ

淹れてきました。ミルクを切らしていたので今日はブラックです。インスタントコーヒーとか缶コーヒーとか、手っ取り早くコーヒーを飲むなら他に良い手段があるこの頃です。そんな中どうしてわざわざドリッパーでコーヒーを淹れて飲んでいるかといいますと、「それが1番おいしいから」に尽きるでしょう。どういう豆を使うかとか細かい話は尽きませんが、ドリッパーで淹れたコーヒーとインスタントのコーヒーには天と地ほどの差があると僕は思ってます。味の切れ味と言いますか、雑味の無さが段違いです。普段インスタントの人はドリップタイプのコーヒーを試してみてほしいなと思います。大体6杯セットで1000円前後とインスタントよりは値段がしますがお手軽です。そして結構味が違うはずです。

淹れるときにコーヒーの良い香りがする

これは人によって好みが分かれるかもしれません。ちなみに僕は好きな方。お湯を注ぐ時にコーヒーの香りがキッチンいっぱいに広がります。何なら豆を挽く時にも香りが立ちます。僕はコーヒーを飲みすぎて何も疑問に感じないくらいになってしまっているのですが、そうでもない人からしたらなかなか思った以上なようで、誰かに振舞った際に驚かれます。「あぁ~!コーヒーの匂ぃ~~!」ってなります。

豆を選べる

「豆を選ぶ」とか言ったらちょっと上級者向けに聞こえますよね。コーヒー豆には主にその産地別に沢山の種類があります。その土地の気候や環境によって味に変化があるので単純にいろいろ飲み比べてみても面白いです。他にも焙煎の深さでもコーヒーの味が変わってきたりしますが、とにかく自分で種類を選べるというのが市販には無い魅力だと思います。

最たるメリットは自分が1番飲みやすい豆を選べることなんですよね。コーヒーの酸味が苦手なら酸味の薄い豆を選べばいいし、苦味が強いモノが好きならそういう種類が自分で選べばいい。自分の細かい好みや飲み方に対応した味を選べる。これはドリッパーじゃないとできないことです。

・・・・やっぱりちょっと玄人志向ですかね(--;) 「何選んだらいいかわからない!」って人はお店の人に聞いてみるのが1番だと思います。その人の要望に合わせて飲みやすいモノをオススメしてくれるはずです。

挽きたてが1番おいしい

パンは焼きたて、コロッケは揚げたて、コーヒーは挽きたての豆が1番です。「ブラジルの人とかが手に持ってるコーヒーは豆なのに、どうして淹れる時のコーヒーは粉なんだろう?」とか思ったことありませんか?あの豆は淹れる前に粉々にすり潰されてるんですね。その為の機械がコーヒーミルというやつなのですが、この手間は面倒臭がられるので、しばしば出荷する時に一緒に行われてしまいます。上で貼ったリンクの商品もそうなってるはずです。「カップの上にセットして、お湯を入れるだけ」というのがとにかく楽なのですよね。でも、1番はやっぱりその場で挽いた豆が良いですよね。

僕は豆を挽く作業がそこまで苦でもないのですが、とはいえ一般的にはやっぱり面倒なもんです。コーヒーミルも買わないといけないし。なので、お店で買う時に一緒に挽いてもらうことをオススメします。大体のお店はその場で挽いてくれるはずです。 ただコーヒー豆は挽いてからの味の劣化がそこそこ早いので、挽いてから大体1ヶ月以内には飲みきってしまった方が良いと思います。別に2ヶ月経っても普通に飲めるんですけど、挽きたてほどおいしくはないです。その辺は茶葉と一緒ですね。

まとめ

コーヒーおいしいよ、コーヒー。

「 誰でもおいしくコーヒーが淹れられる」という意味ではサイフォンが良いのかもしれませんが、手軽さからやっぱりペーパーフィルターでのドリップコーヒーがオススメです。2000円も出せばとりあえず飲めますからね。僕も1800円だかのハリオのヤツをずっと使ってます。手軽においしく奥が深い。皆さんもメクルメクコーヒーワールドに足を踏み入れてみてはいかがでしょう?

 

僕が普段使っているものです。アマゾンは安いですね。一度に沢山淹れて日に3杯くらい飲んでます。 

 

ドリッパーから豆を保存する容器まで、一式がセットで買えます。 ドリッパーの部分だけを直接カップの上にのせられるので1杯単位でも淹れられます。ここから初めてみるのがオススメ。

 

型は古いですがこれを使ってます。豆から挽きたい人はこの辺がお手頃かなと思います。そろそろ買い換えたい。リンクは貼りませんが電動のモノがあるので、そっちの方が圧倒的に楽ではあります。ただ値段が高いです(--;) これこそ玄人志向ですね。

 

(最終更新:2018/07/06)

僕はただ勉強ができない

リハビリも兼ねて、書いていくですよ。

「僕は勉強ができない」というタイトルの本があります。山田詠美さんの書いた小説で、センター試験にも出題されたことで有名です。1度読んでいて紹介したい本でもあるのですが、今回はそれとは一切関係の無い話。単純に自分が勉強できない人間であるという嘆きが延々語られます( ̄▽ ̄;)

どこまでいってもタイトル通りな内容ではあるんですけどね。12年だか16年だか、日々勉強というモノを重ねてきた過去があるというのに、未だに机に向かって知識を詰め込むということに抵抗がある自分にウンザリしますよね。何でできないんでしょう?どうやったらできるんでしょう?僕が今までやってきたことは本当に勉強と呼べるモノだったのか?それすら疑わしくなってくるくらいです。ここで日本の教育はどうこうみたいな事を語るつもりはありませんし、そもそも僕にはそれを語るだけの知識も無いのでもう残念極まりない感じなのですが、こう誰かにノルマを課されないと動けないようになってしまっているのは悲しいことだなぁと思います。能動的にあれもこれもと学んでいけたならこんな苦悩を抱えなくても良かったのかな、なんてね。

まあそもそも人間は期限を設けないと努力しない怠惰な生き物だったりしますからね。やってるうちに自然と意欲が湧いてきて、あれもこれもなんていう風になれたらなんて考えますけど結局は理想論なのかなとも思います。それでもそういう状態になったりはするんですけどね。「書きたいことが沢山あって、でも毎日更新してるとペースが落ちた時に苦しいから余力を残して書かないでいる」みたいな。調子がいい時に余力を切り捨てなきゃいけないのは勿体無いと思いますが、ユメユメその状態を普通だと思わないようにやっていきたいですよね。

日に日に書く記事の文字数が多くなっていく中でたまに中身の無い記事を書きたくなるのはそういう心理からくる反動だったりするのかな、とも思います。