「僕は何もできない」そう思ったあの時と、あれから時間が経って今。
僕は何もできなかったなぁ。
いつかの12月とか。あの6月とか。あの時の2月とか。いつも僕の手は届かなかった。「どうにかしたい」って思いがあるだけで、そこに立ち尽くして見ていることしかできなかった。僕は単純に言葉そのままの意味で「何もできない」なんて思うことはあんまりない。けど、誰かの問題に首を突っ込んだり、巻き込まれたりした時は、どうしようもなくそんな思いを抱えて立ち尽くすことがあったなぁ。どんなに無力だってわかってたって、それに気付いていて知っている僕は無くならないわけで、放っておけない良心が行き場を失くして自分のことを責め立てるんだ。そして誰も救われない。
なんて不毛なんだろう。
そう思った頃から僕はそんな感情を抱く状況そのものを遠ざけるようになっていった。なるべく人には関わらず。関わっても必要最低限。誰かに深入りなんてしない。それでもどうしても誰かの事情に首を突っ込むことがあった日には、口癖みたいに「僕は何もしてないよ」。ただの謙遜とも取れるその言葉は僕の僕自身に対する暗示みたいなものだった。
こうして振り返ると、あの時はいろんな感情が入り混じっていたなと思う。単純に「他人様に対して何かができるだなんて幻想を間違っても抱かないように」って自身に釘を刺す意味があった。思い上がった愚かな自分になりたくなかった。でも、問題ごと自体を遠ざけようとした僕の根底には「もうあんな無力感を味わいたくない」という思いがあった。周りの人から遠ざかることで、自分自身に意識を向ける時間を増やす意図も、今思えばあったのかもしれない。あの頃の僕は今よりずっと、自分がどういう人間なのかをわかっていなかった。自分が何なのかもよくわからずに、得体の知れない僕なりに誰かの為になろうとして、誰かの為になれない自分にくじけていた。確かに、どうしようもなく、何もできていなかった。
あれからずいぶん経って、気付けば「あんなこともあったんだ」って語れるくらいの僕になってしまっている。けれど、多分、僕の実情はそんなに変わらない。前よりいくらか自分のことに詳しくなって、上手く立ち回れるようになっただけ。手を伸ばしても届かないことは変わらないし、無力感を遠ざけたい僕もきっと変わらない。それでも、そこそこ幸福度高めな人間になれたのは、僕が「何もできない」ことを受け入れたからなのかもしれない。どうしようもできないことはやっぱりあって、それをどうにかしようとして途方に暮れるのではなく、それとは関係の無いところに生きるようになった。
ある意味、敗北。諦めだ。
そして、きっと僕はそれから逃げ続ける日々を送り、最終的には追い詰められて向き合わなければならない未来がくるだろう。でも、まあそんな未来が今日になる頃には多分何かしらができるようになってる僕がいるんだろう。そんなことを思いながら。
僕は何もできないまま・・・・